その昔、内陸部では生魚がたいへん貴重で、正月やお祭りの際に食膳につくくらいでした。その中でも、出世魚といわれる『鰤』は、正月にはなくてはならない縁起物として喜ばれていました。
古文書によると、1700年ごろには定期市があったとあり、これが北房のぶり市の発祥とされています。ぶり市が繁盛し始めたのは1744年、備中松山藩の領主・石川主殿頭総慶が伊勢亀山藩に移ったときに、中津井に陣屋を置いたことがきっかけでした。陣屋の代官が領民保護政策として、「正月くらいは鰤を食べて…」とぶり市を奨励したのです。
鰤市の当日は、旧年末で寒い時期でもたいへんな活気がみなぎっていたといわれています。前日からの準備は忙しく、夕方から夜どおしかけて露店商人が出入りし、大八車などで鰤をはじめとした商品が運び込まれました。
近隣の村々からも大勢の人が繰り出し、米一俵もする鰤が2千本、3千本と売れたといいます。
昭和5年ごろから呰部の町でも鰤市が開かれ、昭和30年ごろから一段と盛んになりました。その後、呰部の町が北房町の中心的位置となって商店化していったことで、だんだんと呰部の鰤市が繁栄。現在の「北房ぶり市」へと受け継がれるようになりました。
最近では旧正月を祝う家はなくなりましたが、「北房ぶり市」は北房地域の年中行事として続いています。毎年2月の第1日曜日に呰部商店街で開催され、通りには金物や植木、乾物などの出店がずらりと並び、昔の市の雰囲気が再現されます。
鰤を豪快にさばいて売る「ぶり小屋」も設置され、新鮮な鰤を手に入れようと、今でも大勢の人でに賑わっています。
また、「ぶり市の風に当たると運が良い、風邪を引かない」といった言い伝えもあり、縁起の良いイベントとしても知られています。